[コラム] ゲンロンカフェ

この記事は約 15 分くらいで読めます

どうすれば良いのかわからないことが増えてきた

あれは2019年はじめくらいでしょうか。あるいは2018年末くらいかもしれません。新型コロナウイルスによる騒動が始まってなおさら、ぼくは悩んでいました。妻にも相談はしていましたが、考え方が異なりますし、解決できることもあれば、できないこともあります。家族は万能ではありません。「このままでいいんだろうか?」「自分はこの先どうすればいいのか?」「これまでやってきたことは正しかったのか?」と考えあぐねていました。結論からいえば、これは年齢的なものではありました。誰もが40歳を超えてくるあたりから自分のやってきたことに縛られ始めます。そして、限界を感じ始めます。これはできるけれど、これはできないなということが増えてきます。若いことは気づかなかったことです。そこでぼくが手に取ったのが「ゲンロン戦記」でした。

ゲンロン戦記からつながった

なぜゲンロン戦記を手に取ったのか、これは思い出せないのですが、単にAmazonのレコメンドだったのかもしれません。ぼくは本を読む習慣を持っていない人間でしたから、なぜ買って読んだのかいまでも謎ですw。その頃はまったく本を買わなかったし、読まなかった。きっと、過去の記憶の中の東浩紀がよほど印象的で、何を書いているのか気になったのかもしれません。東浩紀さん(71年生まれ)はぼく(76年生まれ)とほぼ同世代の中ではちょっと上に位置し、若い頃から100年に1人の逸材として認められた人です。民放の番組に出ていた当時は、生意気な若者という感じでしたが、その他を寄せ付けない経歴と発せられる言葉から、ぼくはものすごい人がいるものだと思っていました。でも、当時は哲学に興味はなく、オタク文化にもあまり重なっていなかったので、そこまで興味はありませんでした。

あ、思い出しました。たしか、Kindleで買ったんですよね…。これを買う前には、今思えば極端にリベラルな(東さんもリベラルではありますが)武田砂鉄、宇野常寛、落合陽一あたりを読んでみたものの、ぜんぜんしっくり来なかったんですね。文体ではなく、内容がまったく。言ってることの現実感のなさというか、ぼくはぼくよりいくつか若い人の本を読みたいと思ったんです。なぜかというと、ぼくはぼくの限界を知り始めたからです。

現在の業務という狭いものではなく、人間としての限界というか、老いや加齢というやつです。若い頃には何でもできる気がしていましたし、可能性はまだあると思っていました。経済的なこともですが、人間そのものの成長といえばいいでしょうか。あるいは教養。わかりやすくいえば、価値観のアップデートだったりともいえます。ずっと理系だったので、歴史、文学、哲学、社会、文化、法律などいろいろなことが足りていませんでした。そこもまずいなと思っていました。いまさら学ぶにはどうすれば良いのだろう?と。だから、今話題の人の、特に少し若い人たちの言うことを聞き、本も読んでみようと思ったんですね。ところが、ぜんぜんわからなかった。ユヴァル・ノア・ハラリも売れていたので、ホモデウスとサピエンス全史を併読したりもしましたが、これもちょっと納得できないものでした。多少、知識はつきましたけど。そういうものを買ったので、Amazonが東浩紀をプッシュしてきたのだと思いますが、でもそれはただしかったようです。

Amazonの紹介欄にはこうあります。

  • 10年の遍歴をへて哲学者が到達した、「生き延び」の論理
  • 思わず人に話したくなるような面白さ
  • 「中年の成熟本」「中小企業文学」「起業の奮闘記」「哲学者の自伝」「組織論」「現代ネット論」との呼び声、世代を超えて話題!

新書で1,000円程度だったので、軽い気持ちで買ったわけですが、これがめちゃくちゃおもしろかった。詳しくはぜひ読んで欲しいのですが、東浩紀さんが株式会社ゲンロンを立ち上げ、その中で起きたことをまさに赤裸々に綴っています。哲学の話を利用したりもしますが、ほとんどは読みやすい文章で、誰にでも読めます。そして、ぼくの年代で歳を取ってきた人が共感できる内容になっています。たぶんかなり若い人にはわからないと思いますし、新人類世代以前の方にも分からないかもしれません。30-50歳くらいの人は共感できると思います。

とてもシンプルに言えば、生活と結びついたものでした。それまでに読んだ宇野や落合やハラリは、まるで雲の上の話だったり、ぼくには関係ない話だったり、あるいはまるで非現実的だったりで、読んでもぼくがすることは何も変わらなかったし、ぼくが過去にやってきたことにもまったく関係がありませんでした。その時には何も感じていませんでしたが、今思えば、そりゃ読んでも受けないはずだと思いますw。彼らには生活感がないからです。空中戦のようなもので、地上に降りては来ていない。自分は空にいて安全で、その位置から外界をむしろ騒がせている。

でも、ゲンロン戦記はぼく(ら)のために書かれた本だったのかと思いました。ぼくが起業するちょうど一年前くらいに東浩紀さんはゲンロンを起業されました。東さんほどの経歴があれば、大学に席を置き、安定した地位を獲得することは容易でしょう。しかし、そうはしなかった。途中で大学から去り、ぼくとほぼ同時期である東日本大震災の前後に会社を興します。東日本大震災は災害の部分に関しては報じられるものの、個人に与えた影響、つまり直接的な被災者ではない人々や世の中への影響に関しては、まったく語られませんし、総括もされていません。国民もすっかり忘れてしまっているかのように思います。ゲンロン戦記ではこのことについても書かれています。昭和後期に生まれたこと、平成という時代におきたこと、感じたこと、それらの意味。そして令和の時代へ。ぼくも忘れかけていたことを、読みやすい文章で、規模は違えど同じ経営者という立場で、同じ年代の同じ時代を見て生きてきた立場から書かれています。それに感動してしまいました。救われたような気持ちでしたし、とても元気が出ました。「ぼくだけじゃなかったんだ」と思いました。やっと出会えたという感じでもありました。

もちろん、個人事業と法人格ではまったく違う部分も多くありますが、経営のことをわからない人間が起業するということでいえば、理系大学を中退したぼくと、東大を首席で卒業どころか、博士号を取るまで現役でいったような特別な人とが、同じことをおもい、同じことを考え、同じことに苦しんでいたなんて、まったく思いも寄りませんでした。ゲンロンはその後、ロシア文学者・研究者・演劇研究者であり、ロシア語通訳・翻訳者や文学博士でもある上田洋子さんに経営を引き継がれ現在に至っています。

訂正する力

10月19日には新刊「訂正する力」が発売されました。

ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく。

哲学の魅力を支える「時事」「理論」「実存」の三つの視点から、
現代日本で「誤る」こと、「訂正」することの意味を問い、
この国の自画像をアップデートする。

難しいことを書いてあるようですが、とてもかんたんなことばで書いてあります。でも、ものすごく深い。読みながら、自分の生活や社会と自然と繋がりつつ、それについてどうだろうと立ち止まっては考えられます。東さんはゲンロン戦記でも読みやすい文体を意識して使われているのですが、この訂正する力はさらに進化した読みやすさを発揮されています。ぼくのように勉強が苦手な頭の悪い人間にでもスーッと入ってきます。そして、考えさせられます。結論が出る場合も、出ない場合もあるけれど、考えることが大事だと教えてくれます。ぼく自信のこととして理解しながら読み進めることができます。この文章の質がすばらしい。こんな文章を書ける人がすごい。ぼくもブログにこうして文章を書きますので、これはこれでとても参考になります。

ぼくはどちらかというと批評的な人間で、何かにつけて主観的な評を表してしまうため、自己主張が強いと思われることがよくあります。たしかにそうかも知れません。だからこそ、これだと思ったものには熱意を込めて伝えてしまいます。それを押し付けだと感じる人もいるでしょうし、そういう批判に対しては悩んでいたこともあります。そういうこともゲンロンとの関わりの中で、いろいろな本の中で、あるいは話の中で、少しずつですが解決に向けて前進することができています。会話や対話を、一つの結論に向かって動かすことを是とする空気が濃いのかもしれませんが、ぼくは相手の発言に対して「いやいやそれは〇〇ではないのか」と延々と続く会話こそ、お互いにとって変化のある、得るもののある会話であるのだという訂正する力の中での主張を読んで、そういう価値観もあっていいのだと思いました。相手と自分が最初から同じ考えであることがわかっていて、最初から落とし所を知っている会話など、特に意味はない。話す必要がないと言えます。相手も自分もいずれも変わらない会話に意味などないでしょう。相手と違うからこそ話をするべきです。

そして、人は間違えてもいいと思うのです。むしろ、間違えるものであり、その間違いを訂正し続けて生きているものだと、この本では書かれています。その点にぼくは深く感銘を受けました。あたかも世の中は、間違えてはいけないし、相手を傷つけてもいけない。とにかく全方位に配慮を施し、何事も起きぬようにするべきだ。そして、おかしなことはしない方がいい、相手を肯定しろ、相手の立場に立って共感しろ、スルースキルを高めろ、傍観者であれ、関わるな、そういっているかのように思います。それから、人も間違いを指摘してもいいのだという価値観も広まってきています。SNSにおいての晒しのような文化もその一端でしょう。そのいずれも、ぼくにはよくわからない考えなので、以前からこれも悩みのタネでした。個人主義的すぎると思いましたし、もっと公共性を発揮すべきだと思っていました。間違えたら謝ればいいし、直せばいいじゃないかともずっと思っていました。間違えることを恐れては何もできないと皆口では言いますが、いざ自らが何かをされる側に回ると、配慮せよという人は多い。間違わぬことこそ最良だと思う人は多い。日本では間違いを許さない文化であり、間違った人を排除していいと合意を得やすい文化です。異端児も嫌われますし、嫌われることができない人も多い。他人を大切に思うのは良いと思いますが、主体性に欠ける人も多い。迷惑という言葉はその象徴でしょうし、マナーはそれが形になったものでしょう。明文化しないルールでがんじがらめにすることは日本の文化のよくないところだと言えます。

新型コロナウイルスによる騒ぎはぼくにとって、とても大きくネガティブな影響を与えました。とにかく生活がしにくかった、生きづらかった。気が休まらなかった。ぼくの考えだけがおかしいのかと悩んでいました。2019年のGWあたりでは食欲が著しく減退し、毎日が胃痛を伴う状態でした。マナー、自粛、迷惑、配慮、そればかり。主体的には何もしないし、何も言わない。ウイルスに対する対応に限ったことではなく、ぼくからみると、誰も生きていないように見えました。”先生”が次に何を行ってくれるのかひたすら待つばかり。そこでぼくを救ってくれたのがゲンロンであり、ゲンロンカフェとシラスだったのです。ゲンロンを知ってから、ぼくはいろいろなことに興味を持つようになりました。そのことで生活が、サイクリングが、旅行が、観光がとてもとてもたのしくなりました。家族と過ごす時間も楽しくなりました。子どもをより大切にするようになりました。すべてが良いことばかりではありませんが、それも含めてぼくであり、それは訂正し、され続けることでまだ可能性が広がるのだと教わりました。ぼくは自分が気づかぬうちに、ぼく自身をいまの世の中に合わせて訂正していたし、それでよかった。人は変わっていくし、忘れていくことで生きていけるのです。ぼくはぼくでよかったとわかりましたし、ぼくみたいなやつじゃない人が周りにたくさんいて、それがよかったとも知りました。

カフェですが、カフェではありません

ゲンロンカフェはカフェという名前ですが、いわゆる飲み物や軽食を出す店舗ではなく、基本的には五反田の雑居ビルにあるイベントスペースです。株式会社ゲンロンが運営し、同社が行うトークイベントを実施するために維持しているものです。ぼくはゲンロン戦記を読んで知りました。ゲンロンカフェではさまざまなことが話されます。下世話な時事ネタ、政治、哲学、批評、美術、建築、映画、植物、AI、小説、歴史、アニメや漫画などなど、挙げればキリがありません。限界はありません。ゲンロンカフェのいいところは、そのような雑多な知識を持ちつつちゃんとしたバランス感を持つ人が集まるところです。そして、講演会やトークショー、あるいはカルチャーセンターの講座のように、1時間や2時間で「はい、それではお時間となりましたので」と終わらない。とにかく続いていきます。3時間は短い方で、平均して5−8時間くらいは続きます。夜19時にはじまって、明け方まで続くものもあります。

もちろん、ずっと意味のある会話をしているわけではありません。雑談もあり、笑いもあります。だからこその長時間が可能なのであり、長時間だからこそ、その中で自分にとって何かを得られる会話が見つけられる。そして、間違うこともある。でも、それでいい。最初は何を言っているのか分からなくても、ずっと聞いているとだんだんわかってくる。お互いが分かってくる。ぼくたちは普段の会話も同じようにやっているというのが、東さんによる主張です。人は長い間いっしょにいると、なぜか信頼のようなものまで芽生えてくるものです。

また、そこに集まった観客同士の交流もあります。実際、ぼくはゲンロンカフェで知り合った友人とプロ野球の試合を見に行ったり、その帰りがけに飲みながら話したりしています。ただの野球好きの知り合いではなく、ちゃんといろいろなことに興味をもち、知ろうとし、自ら開かれている人たちだからこそ、話ができるし、対話が続きます。つまらない飲み会にはなりません。でも、職業も生活環境も育ちもバラバラ、それが良いのです。小学校はいいですが、中学高校大学と上がるにつれて、同一性集団での会話や付き合いが多くなってきます。ぼくは以前からあれが好きではなく、特に面白くないと感じていました。まさか、47歳にもなって、仕事とも家族とも関係がなく、また近所付き合いでもない関係性が生まれ、なおかつ、ちゃんと話ができる価値観をもっている友人ができることは、そうあることではないでしょう。

ゲンロンカフェには多くの有名人が登壇しています。直近では、川上量生、小川哲、小泉悠、太田光、古市憲寿、浦沢直樹、Mr.マリック、斎藤幸平などなど…。過去には京極夏彦、鈴木邦男、佐藤優、新谷学、能町みね子、しりあがり寿などなどと、あらゆるジャンルを右から左まで横断してます。それがいいのです。そんなスペースは他にありません。そしてちゃんと話をして、聞いて、喋ります。言いたいことだけ言うとか、変に煽るようなことばかり言うとかではなく、ちゃんと会話し、引き出します。それがずっと続くのです。

その様子はシラスというサービスでも配信され、ネット経由でもみることができます。月額料金を払うサービス形態以外に、その都度の番組単位で課金してみることができるサービス形態もあるので、とても利用しやすくなっています。ゲンロンにはゲンロン友の会という、コミュニティがあり、会費によりゲンロンのあらゆる活動を支えていますが、それとシラスは別ですからご安心ください。シラスをみて、ゲンロンカフェに行ってみて、もしゲンロンそのものに興味が出たら本を読んだりし、友の会にも入ることはできます。なお、ぼくはゲンロン友の会の会員です。シラスで購入した番組のアーカイブは半年間は何度でも観ることができます。他のサービスではアーカイブがなかったり、あるいは2週間くらいのものが多いですね。何度も同じ話を聞いていると、前回は理解できなかった部分がわかってきたり、別の見方ができたりもします。それも非常に会話的だといえます。

ぜひゆっくり話しましょう

ぼくはお客さんのことを理解したいし、お客さんにもぼくのことを理解して欲しい。単に自転車の話題だけするより、色々な話をしたほうが人は信頼を高めやすいものです。ものを買うためだけの、売るためだけの会話しかなければ、それはネットでも保管することが可能だと思われたり、あるいは通販や自販機で買っても同じだと思われるのはわかります。同じ買うなら安い方がいい、そうも考えるでしょう。でも、それは間違っていると思います。人は人と話すからおもしろいのです。間違いが含まれるから、訂正が生まれ、次に繋がっていきます。文字のやりとりと言葉は違います。文章と会話はできることが異なります。

ぼくは自転車を販売するというプロセスを通じて、お客さんといろいろな人と会話がしたいと思っています。会話を通じてお互いを少しずつ変えることができればいいし、自転車の販売に作家性を持たせたいとも思っています。そのことで、自転車に関わる人の生活がなにかしら変化すればいいと願っています。できるだけ多くの人にとか、改善をとは思っていません。どちらも約束することは無理だからです。ぼくはぼくの目の前の人にしか話ができません。物理的な距離という限界があります。また、良い影響だけを与えることは不可能です。悪いこともあるでしょう。でも、両方あるのが人間です。そして、自転車に関わっている時間以外の生活もまた、お互いの人間性の中には含まれています。

現在、当店では予約優先制にし、サービスを提供しています。予約していただける方を優先してお相手しています。それはサービスの質とお互いの信頼性を向上させるためです。単位は30分や1時間単位になっていますが、予約時間が終わってもその後の時間が空いている場合、そのままお話しいただけます。基本的には際限はありませんので、延長可能です。時間を制限して話すのは、先に申し上げたように無理がありますし、得るものが少なくなってしまいます。2時間話したあとでこそ、有用な会話が交わされることもあります。ぼくは、お互いはきっと理解できない存在ではあるけれど、理解しようと努力し続けて、お互いを訂正しあうことに意味があると思います。

できることなら人の少ない時間にご予約いただく方が良いとは思いますが、お時間を確保頂く都合がつかない場合には、後ろの時間が迫っている場合になってしまいますのでご了承ください。可能な限りゆっくり話しましょう。そして、会話を通じて多くのサイクリストがお互いが必要な存在であることを認め合うことができればうれしく思いますし、自転車を通じて生活を少しでも楽しく前向きに過ごすことができればうれしく思います。